旧駿河台キャンパスの記憶
今回は今や伝説となってしまった中央大学の旧駿河台キャンパスの記憶を戻して、その時代を学んだ方は懐かしさが蘇ればと考えました。
また、多摩校舎へ移転後に入学された方は、その当時の雰囲気が伝わればこの企画の目的は達せられます。
(注意:ここで使用している写真は「中央大学広報室大学資料課」へ申請し、許可を頂いたうえで公開をしております。写真のコピーや転用は許可されておりませんので、ご注意ください。)
まずは、中央大学の「あゆみ」を振り返って見ておきましょう。
中央大学の「あゆみ」
中央大学は1885(明治18)年7月、東京府神田区神田錦町2丁目2番地に、英吉利法律学校(イギリス ホウリツ ガッコウ)として創設されました。
創立者は、増島六一郎、高橋一勝、岡山兼吉、高橋健三、岡村輝彦、山田喜之助、菊池武夫、西川鉄次郎、江木衷、磯部醇、藤田隆三郎、土方寧、奥田義人、穂積陳重、合川正道、元田肇、渡辺安積、渋谷慥爾の18人の少壮法律家といわれています。
設立当初の校舎は旧旗本蒔田家の屋敷で、約800坪の敷地にあった家屋300坪余を教場としました。
同年9月10日に開校した同校の初代校長には増島が、また幹事には渋谷慥爾が就任しました。
1889年1月、凹字型の煉瓦造2階建て新校舎が完成し、施設の拡充が図られました。
その年の10月には幅広い法学教育をめざして校名を東京法学院と改称しました。
院長は当初増島が務めていましたが、1891年4月に菊池武夫と交代しました。
この校名変更は、時代の趨勢に応じて、わが国の法律を既設の学科目に加えて教授することを意図していたと同時に、東京医学院および東京文学院と連合して本邦初の私立総合大学をめざした布石でもありました。
1892年、本学は神田大火により校舎を全焼し、高橋法律文庫など貴重な財産を失いましたが、神田一ツ橋の帝国大学講義室に仮教場を設けて、同年8月の校舎再築までここで授業を続けました。
1903年、社団法人東京法学院大学が設置認可され、専門学校令により東京法学院大学と改称し、菊池が学長に就任しました。
1905年に至って校名を中央大学と改称し、経済学科を新設しました。
この年は創立20周年に当たり、教職員・卒業生が一丸となって記念講堂の建設、記念式典が盛大に行われました。
1909年にはまた新たに商業学科が設けられ、法学、経済学、商学の3学科を有する大学となりました。
1917年6月、今度は失火のため再び校舎・図書館を全焼、奥田文庫(ビルクマイヤー文庫)を失いましたが、翌1918年8月校舎を再築することができました。
この年、大学令が公布されると本学はそれに対応して翌年社団法人中央大学の解散と財団法人中央大学の設立を決定しました。
1920年、大学令による中央大学の設立認可を受け、法学部・経済学部・商学部・大学院・大学予科を擁する旧制大学の体系が整えられました。
1923年9月、関東大震災に罹災し、三たび校舎を焼失。その復旧をはかりましたが、さらなる発展をめざした本学は、1926年8月駿河台校舎を完成させ、神田錦町から駿河台へと移転し、以来50年余この地において充実発展してきました。
1931年、夜間学部を開設、また1944年には工業専門学校を新設、さらに1948年には通信教育部(法)を開設しました。
1949年、学制改革にともない新制大学が発足、工業専門学校を廃して工学部を新設しました。
1951年には、文学部および新制大学院を設置したほか、この年財団法人中央大学から学校法人中央大学へ組織変更がなされ、さらにまた1962年には工学部を理工学部に改組しました。
1978年4月、教学施設充実計画にもとづいて文系4学部(法・経済・商・文)は多摩校地へ移転し、また理工学部は後楽園キャンパス(文京区春日)を増築してこの計画を完了しました。
1985年、創立100周年を迎え、1988年には100周年記念事業の一環として駿河台記念館が落成しました。
その後、1993年に総合政策学部を多摩キャンパスに新設し、さらに2000年には市ヶ谷キャンパスを開設して、2002年に日本初のアカウンティングスクールである国際会計研究科を(~2018年)、2004年には法科大学院(ロースクール)を開校しました。
そして2008年には、後楽園キャンパスに戦略経営研究科(ビジネススクール)を開校しました。
2019年には、多摩キャンパスに国際経営学部、市ヶ谷田町キャンパスに国際情報学部を新設しました。
137年の歴史を誇る本学は現在8学部、大学院7研究科、専門職大学院2研究科のほか、9研究所、4附属高等学校、2附属中学校を擁する総合学園となっています。
(中央大学のあゆみ より抜粋 2022年4月改訂)
旧駿河台キャンパスの全貌スケッチ
航空写真でのマップエリア
御茶ノ水の佇まい(キャンパスと言うよりは株式会社・・という印象でしたね)
赤い線で囲まれたエリアが旧駿河台キャンパスです。
左側の緑色の屋根が2号館(コの字型)、その手前の大きな建物が1号館、1号館の左手に見えるのが大学院図書館、1号館の右手前に見えるのが中央図書館です。
赤い線で囲まれたエリアの右手に見えるのが3号館、4号館、で一番手前が5号館です。
エリアの一番左奥にあるのが、生協、学生会館です。
写真の右奥には「御茶ノ水駅」があります。
校舎の配置
1972年4月10日発行「学生諸君へのお知らせ」(№3)より
各校舎の写真
正門・1号館
・左下に正門、正面が1号館、右手に中央図書館が見えます。
・入学式の時にはこの正門で記念撮影を皆がしました。
中央図書館
・左の写真は正門と同じ方向から後ろに下がって見た中央図書館
・右の写真は正門を入って右手を見たときの中央図書館、何処から見ても同じような形です。
2号館・中庭
・1号館の中央ゲートを通り抜けると中庭に出ることが出来ます。
・中庭の周りには2号館がコの字型に廻っています。
・中庭には掲示板、青年像(八王子へ移転)も見えます。
・2号館の1階はアーケードになっていて、何処からでも2号館の教室に入ることが出来ます。
・2号館の地下室はサークルの部室になっていました。狭い部室の争奪戦が大変で、獲得できた時は大盛り上がりでした。
・2号館の内側通路。中庭から直接入る事が出来て、通路にもなっていました。
・雨の日はこの通路が大渋滞になりました。
・白門祭には中庭にてこのような風景も・・
・右側奥に見えるのが1号館、左側に見えるのが2号館の一部です。
・毎年新入生が入ると中庭にて「新入会員募集」の立看板と机が埋め尽くします。
新入学生の勧誘はサークル運営の命ですので、熱気の入った勧誘合戦になります。
南門
・中庭を進んで、2号館左のアーケードをくぐると南門に出られます。
・この写真は南門を内側から見た写真で、南門の向こうに見えるのが学生会館と生協です。
・昔は南門が正門だったようです。
・左の写真は南門を外に出て振り返って南門をみた風景です。(1号館が出来る前は正門だったようです)
・右の写真は学生会館・生協の方から南門を見た写真です。
大講堂・3号館
大講堂
・南門から「御茶ノ水駅」方向に進んで、一つ目の角に見えるのが3号館(大講堂)です。
・大講堂・・ここでは入学式や卒業式が行われました。
・学園紛争の時には大学・教職員・学生の集会・討論の場ともなりました。
・大講堂の角を右方向に見たのが下の写真です。
・通りを挟んで左側の建物が3号館(大講堂)で、右側が2号館です。
・2号館の角に見えるのが2号館の入口で、御茶ノ水駅から本校(駿河台キャンパスの事を皆、こう呼びました)へ来るとこの入口から皆、入退室します。
・道の奥に少し見えるのが4号館と5号館です。
・キャンパスと言うよりは株式会社にしか見えませんね。
4号館
・間の道を進んで見えてくるのが4号館(左側)と2号館(右側)です。
・4号館中央部分が正面玄関です。
・学食があるので、昼になると込み合います。
・学食は因みに学生会館(生協)にもありました。
5号館
5号館
・左奥に見えるのが4号館
・1号館の通り迄来たところから見た5号館です。
大学院図書館
・南門を外から入って右側に見えます。
南門から入ったところにあるケヤキ、奥の2号館の入口の奥には中庭と掲示板が見えます。
・いかがでしたか?
・学生会館(小川町)や中大会館もありますが主なところはこれで一周です。
・旧駿河台キャンパスで学んだ方は少し昔の記憶が蘇れば・・と思います。
・八王子キャンパスしか知らない方は当時の駿河台キャンパスのイメージが伝わったでしょうか。
・最後に「駿河台の記憶」と題した動画もご覧ください。
駿河台の記憶
・次は旧駿河台キャンパスのVR(バーチャル・リアリティ)映像です。
・南門から2号館を通り抜けて中庭へのVRは本当に当時を思い出します。
・後半は中大の閉校際の再現映像ですが、雪の降る中を提灯を持って友人と参加しました。
・中大の1号館には「中大」の文字が・・・ さようなら駿河台キャンパス!
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